ライブに行こう!スローミュージックの考え方

こんにちは、シンガーソングライター、太田まさあきです。

今回は、スローミュージックの話です。スローミュージックって、何やねん。まったりミュージックか。いや、そうじゃないです。是非最後までお読みください。

最近ライブハウスのモダンタイムスに、度々出演させていただいてます。ノージャンルノーエイジ、種々多様なミュージシャンが、演奏します。椅子席たっぷり、安くて美味しい食事なども楽しめます。最初オムライスを勧められたのでいただきましたが、ボリュームも味もグッド。2回目は何だったか忘れましたが、それも美味しかった。そんなモダンタイムスのスローミュージック。

最初、意味が分からなかったんですよ。スローなミュージックだから、ハワイアンなのか。腰ミノつけて、フラダンスを踊るのか。アロハーと言いながら、笑顔でみんなと楽しむのか。やはり室内温度を保つために、暖房をこれでもかと回転させ、さらには観葉植物が所狭しと乱立しているのか。
所が、行ってみるとごく普通のライブハウス。ライブハウス経験の浅い僕ですが、至って普通の印象。

ライブ前にミーティングがありました。そこで、モダンタイムスのスローミュージックの考え方をお聞きしました。話しされたのは、モダンタイムスのヒロさん。そもそもスローミュージックとは?お聞きした内容をもとに、かなり水増しして書いていきます。僕なりの考えも入っているので、原型をとどめてなかったら、ごめんなさい。

現代の音楽事情


音楽の歴史


音楽は、人が楽しむものだ。もともとは、その場にいる人たちで楽しむものだった。今のように、個人で楽しむことは、ほとんど無かっただろう。例えば土の上で、みんなで集まって色んなものを持ち寄り、木や何かを叩いたりしながら、歌ったり踊ったりしてたのだろう。

エジソンの蓄音機により、それが一変した。その場にいなければ聞けなかった音楽は、どこにいても楽しめるようになった。蓄音機さえ持っていれば、メリーさんの羊を歌う声が、どこにいても聞けるようになった。誰かのセレナーデが、遠くの異性に届けられたこともあっただろう。

蓄音機は、あくまで蓄音機。当然、音質の面で物足りない。生音の方が、遥かに心地よかっただろう。生声を聞いた方が、遥かにその人の言いたいことが伝わっただろう。

イベントに行って聞くか、あるいは自分たちで歌ったほうが、はるかに楽しかったに違いない。誰かと約束をし、オシャレして、音楽を聴きに行っていたのだろう。

蓄音機は進化した。音質がどんどん良くなり、臨場感も増し、小型化していった。レコードになり、テープになり、MP3になった。もはや音楽は、その場に行かなくても、楽しめるようになった。

音楽は、特別なものでは無くなった。よりチープに、より身近になっていった。朝起きたら音楽を聴く。食事中、休憩中、風呂中、寝る前などなど。音楽は生活の一部となった。

音楽愛



僕たちは、人を愛する。それと同様、音楽も愛する。時には音楽と寝る時だって、あるだろう。音楽と旅する時もあるだろう。愛する音楽と出会えるかは、人生の楽しみの大きな要素の1つだ。

ところが、音楽を愛する機会が、もしかしたら減ってきている。愛するとは何か。好きとはどう違うのか。

自分の感性に合った物が、好きになる。赤色を好きな人は、赤い物を好きになるだろう。尖った形を好きな人は、尖った物を好きになるだろう。人は好きなものに囲まれていると幸せになり、嫌いなものに囲まれると不幸せになる。好きなものに囲まれていたい。これが、人の大きな欲求だが、実は考え方次第でもある。

人は好きなものに囲まれていたい。所が、そんな虫のいい話は、一部の働かなくていい上流階級だけだろう。そのような恵まれた人々は、嫌いなものに出会うと、排除する傾向にある。金持ちが偉そうに威張り、後で吠え面かくのは、物語の定番シーンだ。

家族はどうか。これはヒロさんの受け売りだが、母親が子供を朝起こして。ご飯を作り、世話をする。そうやって、何とか一人前になるまで育てていく。腹がたつこともある。子供が言うことを聞かなくて、イライラすることもある。これは、好きではない。自分の感性に合わないから、むしろ嫌いになるだろう。

ところが、母親は子供を愛してる。好きを通り越して、愛している。これは、不思議と言わざるを得ない。

愛するとは何か。感性に合う合わないは別だ。母親は子供の将来を案じ。愛する。それは、手間暇かけてきたからかもしれない。

作曲家は、自分の作品を愛する。手間暇かけて作った曲は、気に入らない部分があっても、良くなることを願う。これが、作曲家の音楽愛だ。

聴衆の音楽愛は、時間をさいて聴きに行った、アーティストの音楽だろう。あるいは、お金をかけて買ったCDかも知れない。そうして自分の何かを捧げた音楽を、僕たちは愛するのだ。

ファストミュージック


ストリーミングが主流になりつつある昨今、音楽映画、様々なコンテンツが激安化している。人生を彩る芸術が、どんどん身近になっていく。芸術時代の到来と言えるだろう。僕たちは、芸術時代の黎明期にいるのかも知れない。

ファストフードという言葉がある。主にチェーン展開する飲食店などで、すぐにそれなりの食事が、安価で手に入る。誰が作っても一緒。どこで食べても一緒。
今、ファストミュージック化が進んでいるかも知れない。それなりの音楽が、安価で手に入るのだ。特に、ストリーミング化で、音楽は激安化の一途を辿っている。とても便利だが、本当にそれで満足出来るのか。確かに楽に、様々な音楽に触れることができるが、それで満足なのか。

一時期、ストリーミングは音楽市場を潰すという話があった。あまりにも安価で提供するため、ミュージシャンの儲けが減り、製作へかける資金が減り、モチベーションが減る。所が蓋を開けてみれば、ストリーミング市場が拡大し、ミュージシャンへのバックも増えてきているらしい。それはそれで、いいことだ。一時期騒がれていた、CDが売れなくなったから、音楽家は食べていけないと行った主張は、覆されるかも知れない。

音楽は安くなった。身近になった。僕たちは音楽に囲まれ、音楽と共に生きている。

一方で、物足りなさを感じる人も少なくないだろう。音楽は全盛期を過ぎ、停滞してる感を持つ人も、少なからずいるに違いない。ネットを見ていても、そんな話は時々出てくる。どんな人が書いているのか知らないが、そう言う考えがあることに間違いはない。

趣味の多様化が進んだ。音楽全盛は過ぎた。今のメインは、ゲームだ。陳腐な繰り返しBGMを聴きながら、ボタンあるいは画面を押して、文字あるいは音声のみで、世界のどこかにいる他のプレイヤーと関わる。YouTubeで、人気ゲーマーの配信を見る。スマホで課金する。娯楽の陳腐化が進んでいるといっても、決して過言ではない。

スローミュージック


ファストミュージック化が進んでいるかも知れない。音楽を愛せなくなっているかも知れない。これで本当に良いのか。便利すぎる世の中は、心を侵食するのではないか。SFで良くある、コンピュータに支配される時代が、来るのではないか。核スイッチを握られ、コンピュータに従えと言われる日も、来るのではないか。僕たちは、人らしさを失いつつあるのではないか。

音楽は、人により様々だ。ヒロさんの受け売りだが、音楽家の人生が詰まっている。その人が生きてきて、感じた何かを、作曲やパフォーマンスで披露するのだ。そうした感じは、MP3ではなかなか届かないかも知れない。演奏をその場で聞いて、圧縮カットされていない膨大な情報量の中で、感じ取るものではないだろうか。

今の時代、愛が溢れていると言う人は、ごく少数だろう。もしかしたらいるかも知れないが、そう言うのは、ごく恵まれた、一部の人だろう。派遣社員が肩身の狭い思いをし、ゲーマーが引きこもってブツブツ言っている。昔と今とどちらが愛に溢れていたかと問われれば、不本意ながら、昔かも知れない。

世の中は便利になった。僕たちはほとんど苦労することなく、用事を済ませれる。新幹線に乗れば、途中の景色を楽しむ暇もなく目的地に着く。相手の家族の事情を考えなくても、携帯で連絡が取れる。便利になったお陰で、僕たちは僕たちのしたいように出来る。

やりたいようにやれる、素晴らしいことだ。何も我慢する必要がなく、嫌いな人と会わなくて良く、好きな人と好きな時間に好きなことをする。これが今のライフスタイルだ。

僕たちは人間を愛しているか。好きな人といれれば、それでいいのか。愛するとは何か。

僕たちは、利己主義に走っているかも知れない。自分さえ良ければいい、こうした考え方が、果たして幸福を産むのか。

僕たちが望む望まないに関わらず、世界は動いている。今も一人一人の人間が、それぞれのことをしている。コーヒーを飲んでいるかも知れない、恋人と話しているかも知れない、銃を撃っているかもしれない。こうした人々と、将来全く関わらないと言う保証はどこにあるのか。

アメリカはテロ大国だ。テロに走るのは、概ね阻害されてきた人たちだ。僕たちは、人をないがしろにした代償を、必ず何かの形で払わされる。人知れずやってきたことは、必ず何かの形で現れる。それなら、もうちょっと人間を愛してもいいんじゃないか。もうちょっと、幸せな世界を作ろうとしてもいいんじゃないか。

部屋に閉じこもって音楽を聴くのも、楽しみの1つだ。だけど、ライブに行ってみんなと楽しむのも、1つだ。スローミュージックは、ファストミュージックに対する造語だ。音楽を愛し、色んなライブに行ってみるのも、いいんじゃないかな。

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