表現の自由不自由で困る人
こんにちは!
シンガーソングライター、太田まさあきですよ。
表現する人ですよ。
シンガーソングライター、太田まさあきですよ。
表現する人ですよ。
愛知トリエンナーレ
2019年、愛知トリエンナーレで表現の不自由展が開催されました。
表現の自由を守るために、それを侵害されたとされるアート作品を展示する企画ですね。
ここに展示されたアート作品が、国家間の憎しみを助長するものだったために、抗議電話や殺人予告などが殺到し、中止に追い込まれたものです。
一部に必要とされる作品
具体的には慰安婦像や、日本の昭和天皇を火炙りにすると言ったアート作品ですね。
慰安婦像はただ少女が座ってるだけの像で、昭和天皇を火炙りにするのはただ顔写真と火の映像を組み合わせただけのものです。
何の迫力もないし、何の美しさもないし、何ら惹きつけるものを感じない。
メッセージ性に富むものの、それだけです。
慰安婦像は、慰安婦とされる少女がただ座ってるだけを表現することで、無言の圧力、こんな人がいるんだ、と言うメッセージを出しているのでしょう。
必要とする人たちが、勝手に色んな所に設置して回って広がっていくから、人を惹きつける必要もない。
人を惹きつけないものが、波に乗って世界に広がっていくわけですね。
アイドルとの比較
こういうのは、慰安婦像に限った話では無いです。
握手券を利用した、アイドル商法でもそうですね。
それほど全般に受け入れられる曲でなくても、一部のコアなファン達の応援努力によって、露出が物凄いことになる、と言うものです。
僕が握手券を配ってもこうはいきません。
アイドルの特権ってやつですね。
もっとも、アイドルの曲はそれなりにクォリティが高いです。
愛知トリエンナーレに出品された、表現の自由を侵害されたとするアート作品よりは、よっぽど人を惹きつける魅力がある。
なぜなら、いくらコアなファンがいようとも、クォリティに対するフィードバックは必ずある。
よっぽどなものが売られると、やっぱり叩かれたりするはず。
そこへ行くと、慰安婦像のようなアート作品は、そもそもクォリティに対する言及はほとんどない。
なぜなんだ。
表現の自由
表現の自由は、もともと権力者の圧迫を避けるために生まれた言葉のはずです。
例えば日本が天皇バンザイな時代、天皇を侮辱するようなことは不敬罪として言論の自由を束縛されてました。
事実を事実として言えない状況ですね。
これに対して、言論の自由と言う言葉があります。
ニュースなどでもよく聞きますが、言論の自由が守られているからこそ、みんな好き勝手なことを言えるし、事実をありのまま言葉にできるわけです。
表現の自由も、大体は同じですよね。
例えば僕が、
「天皇も屁こぐんやで」
などと言っても、不敬罪で投獄される心配はありません。
「天皇もお漏らししてたんやで」
などと言っても、皇居はおろか警察からも何か言われる筋合いはありません。
何せ言論の自由ですから。
相手の愉快不愉快
ところがここで、僕が一線を越えるとどうでしょう。
先に出てきた火炙りのアート作品のように、おどろおどろしい表現で天皇を罵倒し、攻撃したらどうでしょう。
それでも僕は、言論の自由だ!と言い張りますが、見てる方はたまったもんじゃありません。
それが広まったら、皇居から尊厳を侵害されたとか何とか言って、訴えられるかもしれません。
表現の先には人がいるんですね。
それを見た聞いた人は、必ず何かしらの感情を持つ。
なるほど確かに!痛快だ!最悪!何こいつ!考えさせられる!などなど。
幸せになりたいしたい
表現の自由は、憲法で定められてます。
だからこれを言う人は、必ず憲法を持ち出してくるはずです。
あるいは、人の共通認識としてすでに浸透しているかもしれません。
そもそも人の活動するのは、自分や他人が幸せになるためのはずです。
やりたいやりたくないに関わらず仕事をしてお金を稼ぎ、出来るだけ美味いものを食べたい、どこか旅行したい、良い家に住みたい、あの人に贈り物をしたい、もっと知識を増やしたい、技術を身に付けたい、などなど。
ところがこうした活動が阻害される場合があります。
一部の権力者による悪政で、人の自由が奪われ、幸せを求めることが出来ず、不幸へまっしぐら。
これを回避するために、憲法という重要な部分で、自由が認められているわけですね。
包丁の用途
だから憲法はあくまで手段であるわけです。
憲法のおかげで、目的である幸せをある程度保証されているわけですね。
だから憲法に感謝しないといけないし、守らなければならない。
ところが、憲法を悪用される場合がある。
一部の人の主張により、大勢の幸せが脅かされ、何の生産性もない道へと引きずりこまれる。
人の幸せをある程度担保するはずの憲法が、人の不幸を増大させるために使われる。
こうならないよう、えらい政治家さん達が日々試行錯誤されてるわけですね。
包丁は使う人次第で、料理の道具になれば、殺人の道具にもなる。
表現の自由も、使う人次第で人を幸せにも不幸にもする。
結局は人の考え方、思考、心、なわけですね。
表現の自由不自由で困る人
表現の自由は、もともとは人の幸せをある程度担保するためのもののはずです。
ところが一部の人たちの主張によって、人を不幸にする。
その代表的なものが、表現の自由だ!と言って見せられるアート作品ですね。
そもそも表現の自由と言う言葉が必要なことって、今のご時世ほとんどないはずです。
政治的にもクリーンになりつつあり、一部の国を除いて、特に日本では、表現の自由が脅かされることなんてまずない。
表現の自由を持ち出すのは、持ち出さなければならないほどにアート作品に魅力がない。
魅力がないアート作品を見せられる人にとっては、たまったものではない。
だから、通常はクォリティフィルターがかけられる。
ところがクォリティフィルターをかけられると、表現の自由を奪われた!と言ってお叱りになられるわけですが、そもそもそう言った作品に日の目が当たる事なんてほとんどないわけで、注目されてるだけでもありがたいわけですね。
愛知トリエンナーレでは、そのクォリティに満足しない、憎しみしか生まない作品に対して多くの苦情が殺到したわけです。
もしこれがライブなら、コップや皿が飛んでたのではないでしょうか。
そんな中でも、演者は自分に足りないものを一生懸命考えて、どうしたら満足してもらえるか、答えを出そうとするわけです。
ところがそうした思考なしに、ただただ表現の自由を奪われた!と主張するのは、芸術家の風上にも置けない大バカものですね。
人は努力する。
好きな人に振り向いてもらえなかったら、自分に足りないものを考える。
上司に褒められたくて、仕事に精を出す。
一方児童虐待をやり過ごすため、親の機嫌をとる子供もいる。
人は努力する。
表現の自由と言う言葉で、思考停止になりたくないものですね。
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